「嵐が丘」
こんな話だとは思わなかった。
というか、まあ、原作じゃなくてアンドレアアーノルド作品と思えばいいのかしら。
映像は、なんか、
ラースフォントリアーの創設した「ドグマ」スタイルを思い起こさせるような
手持ちカメラ、簡素だけど無駄がないスタイルでとても印象的。
実際ベネチアで撮影賞とったみたいだし。
セリフも音楽もほとんどなくミニマイズされているところは私の好みなのだけれど
とにかくずっと淡々としたトーンが、寒さを感じさせるだけで
その寒さが彼らの愛をも冷めさせてしまっていて、
女優男優はいい演技してるんだけど、彼らの愛に一緒に燃えたりとかできない。
あと、撮影法にこだわりすぎて、あんまり登場人物の顔とか見えんかったりするから
誰がどれだか分からなくなってくる。
え?今?誰が話してんの?あれ?あ、声で判断、みたいな。
ってか何で途中からやけに人物増えてるわけ?みたいな。
ヒースクリフも、超イケメンなイメージだったのに、
まあ整ってる顔立ちのただの少年みたいな感じで、
ぼんやりしてて影がうっすらしてる。あんた下働きのが合ってるんじゃないの?みたいな(笑)
私が黒人好きじゃないってのもあるかもしんないけど。
この映画について書く気になった理由は、やっぱりその映像とセリフの少なさでも多くが語られるところだと思う。
わたしは「WALL-E」「うつせみ」(ってかキムギドク映画)など
セリフがものすごく少ない映画が好みだ。
でもサイレント映画はそんなファンじゃなくて、
ここで大事なのは表面上のセリフの展開や、ぽっと言った言葉によって、
その言葉だけじゃ表現しきれないぐらいたくさんのものがひとつのセリフに集約されているのを感じるから。
だから、そういう意味では、言葉を大切にしている映画が好きということで、
セリフが大切なウディアレンの映画や、
音の響きを大切にするベルナルドベルトルッチの映画も大好きな訳で。
話がずれたけど、ミニマイズされたセリフで、
多くを語らないけれど気持ちがすごく分かる、そういうやり方はとても好き。
たとえば、
ヒースクリフが子羊を殺すシーンと
ヒンドリーが「お前を下働きにする」というようなセリフが重ねられて
ヒンドリーに痛めつけられているヒースクリフがどれだけ孤独で、悔しかったかが現れていると思う。
淡々と血が流れ、ブルブル、と子羊が震えているところを見ているだけでも
気持ち悪いぐらいのヒースクリフの憎しみと苦しみが最もエグく痛々しい形で伝わってくる。
とにかくこの映画の特徴は、撮影方法によって、
話がヒースクリフの主観のみで進められるところだろう。
ヒースクリフ少年時代のセリフはほぼなく、
彼が何を見ているか、どう感じているかが映像によって展開されるのと
セリフと映像の重ね方によって、彼の感情が表現されていくのが非常に特徴的。
途中で入る這う虫のシーンなどでも、
やけにヒースクリフの孤独が何度も表現されることになる。
たった1匹で地面を這う虫とそのグロさ、はみ出しっぷり、色の黒さを自分に重ねるヒースクリフ・・・
孤独すぎw
キャサリンも、主役のうちの一人ではなく、
ヒースクリフが情愛を感じる相手としてカメラのフレームを覗き込む。
キャサリンのことをヒースクリフが好きだというのは、
彼の態度とやはり映像の重ね方によって感じ取られる。
たとえば、二人が馬に乗っているときに
彼女の髪が揺れるのが、馬のたてがみにかさなり、
彼女の体を触るように彼が馬の体を撫でる・・・・・うぅ、めっちゃエグい。
とにかく、子供時代で強調されるのは、
ヒースクリフがどれだけ孤独であったか、ということだと思う。
「とにかく僕はひたすら一人で、ずっとこの風のふきすさぶ家でいじめられるのにも耐えてて、
なぜならそれは君、キャサリンがいたから・・・」
みたいな感じだろう。
ヒースクリフを受け入れてくれた父は死に、
ヒンドリーも他のメンバーもヒースクリフをひたすらいじめまくる。
その中でたった一人だけ、いつも傍に味方にいてくれたのが、キャサリンなのだ。
だからなのか…二人の「愛」がなんだか気持ち悪く見えるんだよね。
ヒースクリフの一方的なストーカー的な情愛みたいな。
まあ、なんか途中でヒンドリーとヒンドリーの妻がヤッてるのをヒースクリフが眺めてる、とか、
ヒースクリフの傷をキャサリンがなめる、とか
「愛」じゃなくて「発情」じゃねえの?みたいな感じのシーンが展開するからってのもあるんだけど。
大人時代になって、
完全ヒースクリフ主観の世界が少し変わり、ちょっとリベラルな世界観。
ヒースクリフも登場人物の一人として(それでも主役には変わりないが)
子供時代に比べると客観性の入った撮影に変わる。
そこで、大事なのが、
ヒースクリフがストーカーじゃなかった、というのが
大人時代のキャサリン(美人、ほぅぅ…)の表情と態度によって分かることに。
そうじゃなかったらなんかなあ、撮影法がヒースクリフの主観だけだから、
キャサリンがヒースクリフを愛しているその気持ちがあんまり伝わらないんだよねえ。私としては。
あ、こいつら、愛し合ってたんだ。
そこまで求めあってるのに、一度もキスもセックスもしなかった二人。
ただすれ違うだけでキャサリンは死ぬ。
大人キャサリンの美人演技によって、ああ、こいつら愛し合ってたんだ、しかも深く、というのがなんとなくわかるけど、
なんか、死ぬのも「脚本にあるから死ぬ」みたいな感じで、あんまりしっくりこない。
何でこのタイミングでキャサリンが病気になったのか、そして死んだのか・・・。
で、ごめん、少年時代まではよかったんだけど、ヒースクリフ残酷すぎだし未練残りすぎ。
墓掘り返すとかやっぱストーカーじゃんっ。
こういうところで、観客の私としては、ヒースクリフの気持ちになって、彼と一緒に苦しんで悩んでキャサリンを恋しがらないといけないと思うんだけど、だんだん、奴の行動とかがどうでもよくなってきて「勝手にやってろ」みたいな気持ちになってしまう。
これって、ダメ映画じゃんw まあ私が疲れてるってのもあるのかな?
で、あと、アーンショー家、ちょっと貧乏すぎじゃない??
イメージではそれなりの良家だったんだけど。
キャサリンが結婚したエドガーの家なんて大金持ちで、差ありすぎでしょ。
なんで結婚して親戚同士になったのにエドガーの家ヒンドリーに何の援助もしてない訳?
と思うほどに差ありすぎ。
まあ、アーンショー家はコンクリートで、エドガーの家はカラフルに彩られて、明らかに製作側としては狙った格差なんだけど、
なんでそこまで格差をつけたのか全然わからんw
まあ、この格差によって、特にストーリーを並べなくとも、
キャサリンがなぜ結婚したのか、とか、そういうのは確かに目に見えて語らずとも簡単に分かるし
キャサリンはきっと物理的には満足しているのだろうが、心と魂は満たされていないのだろう、
とまで考えてあげることはできる。
というわけで、なんか、映像表現方法みたいななんか好きなところはあるけど
全体的になんか淡々としすぎてる上にエグくて、愛もすっきりした愛じゃなくてねじ曲がってて、
あんまり観てて気分よくなれない映画だったな。
でもこの監督の他の映画観たことないから、機会あれば観るかな、とは思わされた。
でも、やっぱちょっと気持ち悪かったかな。大人キャサリンが美人じゃなかったら、キツイ映画っすね。
見どころは少年時代のヒースクリフの孤独ぶりを徹底して描き切った映像手法と脚本かな。
日本じゃ公開しないみたいね。
***
ついでに私ヴァージョン「嵐が丘」
この映画を眺めながら、展開していた自分ヴァージョン。
Ver1:
現映画のシーン:
ヒースクリフ帰還。キャサリン結婚しててもやはりヒースクリフを愛している。
ヒースクリフ、「君に復讐しようと思ったけどやっぱりもう2度と離れない。一生傍にいる」とキャサリンにコメント。
その後、ヒースクリフ、キャサリン夫の妹イザベラに大胆なキス。
現映画では「僕を傷つけたリベンジのため」というが・・・・
→私ヴァージョン:
「キャシー、君を愛している!!だから僕はイザベラと結婚するよ。
そうすれば、僕ら全員家族として一緒にいられるだろう?
僕は君の家族として、ずっと君の傍にいられる・・・・」
Ver2:
現映画:ヒースクリフ・イザベラと結婚し、なぜかイザベラは超大金持ちのエドガー家から離れ
貧乏なアーンショー家に・・・。
→私ヴァージョン:こっからは完全に私の妄想です。
エドガー:「僕の提案だが、やはり君もイザベラもみんなでここに住めばいい。みての通り、ここは大屋敷、
部屋はいくらでもあるよ。君たちの子供の分もね。」
という風になり、イザベラと結婚したヒースクリフは、キャサリン・エドガー夫妻と共に一緒の大屋敷に住むことに。
さらに、意外にも、
ヒースクリフは自分がいなくなってる間に儲けた商売についてエドガーが興味を示し、
エドガーとヒースクリフ、さりげに意気統合。
イザベラもキャシーについで子をみごもり、4人が6人になり、大金持ちのエドガー家幸せに包まれる・・・
ヒースクリフは、映画の中のセリフでも言った通り「キャサリンの子供を自分の子供のように育てかわいがる」
そして・・・
ヒースクリフ・キャシー・エドガー・イザベラ全員が幸せになってるところにヒンドリー登場。
ヒンドリー:「ヒースクリフ、お前が家の家賃を払わないせいで俺は賭博で負けて一文なしだ!なんとかしてくれ!」
ヒースクリフ「君はこの大屋敷で下働きとして働けばいいじゃないか」
エドガー、含み笑い。
数年後、
ヒースクリフとキャシーの息子にもこきつかわれてバカにされながら働かされるヒンドリー。(コメディタッチでね)
ヒースクリフの復讐は無事果たされ、
今ではキャシーはエドガーの妻でありながらヒースクリフの妻であるような感じとなり、
イザベラもエドガーもキャシーもヒースクリフも子供も全員が家族でハッピー。
・・・・こっちのが良くないか?
明るく行こうぜ??
こんな話だとは思わなかった。
というか、まあ、原作じゃなくてアンドレアアーノルド作品と思えばいいのかしら。
映像は、なんか、
ラースフォントリアーの創設した「ドグマ」スタイルを思い起こさせるような
手持ちカメラ、簡素だけど無駄がないスタイルでとても印象的。
実際ベネチアで撮影賞とったみたいだし。
セリフも音楽もほとんどなくミニマイズされているところは私の好みなのだけれど
とにかくずっと淡々としたトーンが、寒さを感じさせるだけで
その寒さが彼らの愛をも冷めさせてしまっていて、
女優男優はいい演技してるんだけど、彼らの愛に一緒に燃えたりとかできない。
あと、撮影法にこだわりすぎて、あんまり登場人物の顔とか見えんかったりするから
誰がどれだか分からなくなってくる。
え?今?誰が話してんの?あれ?あ、声で判断、みたいな。
ってか何で途中からやけに人物増えてるわけ?みたいな。
ヒースクリフも、超イケメンなイメージだったのに、
まあ整ってる顔立ちのただの少年みたいな感じで、
ぼんやりしてて影がうっすらしてる。あんた下働きのが合ってるんじゃないの?みたいな(笑)
私が黒人好きじゃないってのもあるかもしんないけど。
この映画について書く気になった理由は、やっぱりその映像とセリフの少なさでも多くが語られるところだと思う。
わたしは「WALL-E」「うつせみ」(ってかキムギドク映画)など
セリフがものすごく少ない映画が好みだ。
でもサイレント映画はそんなファンじゃなくて、
ここで大事なのは表面上のセリフの展開や、ぽっと言った言葉によって、
その言葉だけじゃ表現しきれないぐらいたくさんのものがひとつのセリフに集約されているのを感じるから。
だから、そういう意味では、言葉を大切にしている映画が好きということで、
セリフが大切なウディアレンの映画や、
音の響きを大切にするベルナルドベルトルッチの映画も大好きな訳で。
話がずれたけど、ミニマイズされたセリフで、
多くを語らないけれど気持ちがすごく分かる、そういうやり方はとても好き。
たとえば、
ヒースクリフが子羊を殺すシーンと
ヒンドリーが「お前を下働きにする」というようなセリフが重ねられて
ヒンドリーに痛めつけられているヒースクリフがどれだけ孤独で、悔しかったかが現れていると思う。
淡々と血が流れ、ブルブル、と子羊が震えているところを見ているだけでも
気持ち悪いぐらいのヒースクリフの憎しみと苦しみが最もエグく痛々しい形で伝わってくる。
とにかくこの映画の特徴は、撮影方法によって、
話がヒースクリフの主観のみで進められるところだろう。
ヒースクリフ少年時代のセリフはほぼなく、
彼が何を見ているか、どう感じているかが映像によって展開されるのと
セリフと映像の重ね方によって、彼の感情が表現されていくのが非常に特徴的。
途中で入る這う虫のシーンなどでも、
やけにヒースクリフの孤独が何度も表現されることになる。
たった1匹で地面を這う虫とそのグロさ、はみ出しっぷり、色の黒さを自分に重ねるヒースクリフ・・・
孤独すぎw
キャサリンも、主役のうちの一人ではなく、
ヒースクリフが情愛を感じる相手としてカメラのフレームを覗き込む。
キャサリンのことをヒースクリフが好きだというのは、
彼の態度とやはり映像の重ね方によって感じ取られる。
たとえば、二人が馬に乗っているときに
彼女の髪が揺れるのが、馬のたてがみにかさなり、
彼女の体を触るように彼が馬の体を撫でる・・・・・うぅ、めっちゃエグい。
とにかく、子供時代で強調されるのは、
ヒースクリフがどれだけ孤独であったか、ということだと思う。
「とにかく僕はひたすら一人で、ずっとこの風のふきすさぶ家でいじめられるのにも耐えてて、
なぜならそれは君、キャサリンがいたから・・・」
みたいな感じだろう。
ヒースクリフを受け入れてくれた父は死に、
ヒンドリーも他のメンバーもヒースクリフをひたすらいじめまくる。
その中でたった一人だけ、いつも傍に味方にいてくれたのが、キャサリンなのだ。
だからなのか…二人の「愛」がなんだか気持ち悪く見えるんだよね。
ヒースクリフの一方的なストーカー的な情愛みたいな。
まあ、なんか途中でヒンドリーとヒンドリーの妻がヤッてるのをヒースクリフが眺めてる、とか、
ヒースクリフの傷をキャサリンがなめる、とか
「愛」じゃなくて「発情」じゃねえの?みたいな感じのシーンが展開するからってのもあるんだけど。
大人時代になって、
完全ヒースクリフ主観の世界が少し変わり、ちょっとリベラルな世界観。
ヒースクリフも登場人物の一人として(それでも主役には変わりないが)
子供時代に比べると客観性の入った撮影に変わる。
そこで、大事なのが、
ヒースクリフがストーカーじゃなかった、というのが
大人時代のキャサリン(美人、ほぅぅ…)の表情と態度によって分かることに。
そうじゃなかったらなんかなあ、撮影法がヒースクリフの主観だけだから、
キャサリンがヒースクリフを愛しているその気持ちがあんまり伝わらないんだよねえ。私としては。
あ、こいつら、愛し合ってたんだ。
そこまで求めあってるのに、一度もキスもセックスもしなかった二人。
ただすれ違うだけでキャサリンは死ぬ。
大人キャサリンの美人演技によって、ああ、こいつら愛し合ってたんだ、しかも深く、というのがなんとなくわかるけど、
なんか、死ぬのも「脚本にあるから死ぬ」みたいな感じで、あんまりしっくりこない。
何でこのタイミングでキャサリンが病気になったのか、そして死んだのか・・・。
で、ごめん、少年時代まではよかったんだけど、ヒースクリフ残酷すぎだし未練残りすぎ。
墓掘り返すとかやっぱストーカーじゃんっ。
こういうところで、観客の私としては、ヒースクリフの気持ちになって、彼と一緒に苦しんで悩んでキャサリンを恋しがらないといけないと思うんだけど、だんだん、奴の行動とかがどうでもよくなってきて「勝手にやってろ」みたいな気持ちになってしまう。
これって、ダメ映画じゃんw まあ私が疲れてるってのもあるのかな?
で、あと、アーンショー家、ちょっと貧乏すぎじゃない??
イメージではそれなりの良家だったんだけど。
キャサリンが結婚したエドガーの家なんて大金持ちで、差ありすぎでしょ。
なんで結婚して親戚同士になったのにエドガーの家ヒンドリーに何の援助もしてない訳?
と思うほどに差ありすぎ。
まあ、アーンショー家はコンクリートで、エドガーの家はカラフルに彩られて、明らかに製作側としては狙った格差なんだけど、
なんでそこまで格差をつけたのか全然わからんw
まあ、この格差によって、特にストーリーを並べなくとも、
キャサリンがなぜ結婚したのか、とか、そういうのは確かに目に見えて語らずとも簡単に分かるし
キャサリンはきっと物理的には満足しているのだろうが、心と魂は満たされていないのだろう、
とまで考えてあげることはできる。
というわけで、なんか、映像表現方法みたいななんか好きなところはあるけど
全体的になんか淡々としすぎてる上にエグくて、愛もすっきりした愛じゃなくてねじ曲がってて、
あんまり観てて気分よくなれない映画だったな。
でもこの監督の他の映画観たことないから、機会あれば観るかな、とは思わされた。
でも、やっぱちょっと気持ち悪かったかな。大人キャサリンが美人じゃなかったら、キツイ映画っすね。
見どころは少年時代のヒースクリフの孤独ぶりを徹底して描き切った映像手法と脚本かな。
日本じゃ公開しないみたいね。
***
ついでに私ヴァージョン「嵐が丘」
この映画を眺めながら、展開していた自分ヴァージョン。
Ver1:
現映画のシーン:
ヒースクリフ帰還。キャサリン結婚しててもやはりヒースクリフを愛している。
ヒースクリフ、「君に復讐しようと思ったけどやっぱりもう2度と離れない。一生傍にいる」とキャサリンにコメント。
その後、ヒースクリフ、キャサリン夫の妹イザベラに大胆なキス。
現映画では「僕を傷つけたリベンジのため」というが・・・・
→私ヴァージョン:
「キャシー、君を愛している!!だから僕はイザベラと結婚するよ。
そうすれば、僕ら全員家族として一緒にいられるだろう?
僕は君の家族として、ずっと君の傍にいられる・・・・」
Ver2:
現映画:ヒースクリフ・イザベラと結婚し、なぜかイザベラは超大金持ちのエドガー家から離れ
貧乏なアーンショー家に・・・。
→私ヴァージョン:こっからは完全に私の妄想です。
エドガー:「僕の提案だが、やはり君もイザベラもみんなでここに住めばいい。みての通り、ここは大屋敷、
部屋はいくらでもあるよ。君たちの子供の分もね。」
という風になり、イザベラと結婚したヒースクリフは、キャサリン・エドガー夫妻と共に一緒の大屋敷に住むことに。
さらに、意外にも、
ヒースクリフは自分がいなくなってる間に儲けた商売についてエドガーが興味を示し、
エドガーとヒースクリフ、さりげに意気統合。
イザベラもキャシーについで子をみごもり、4人が6人になり、大金持ちのエドガー家幸せに包まれる・・・
ヒースクリフは、映画の中のセリフでも言った通り「キャサリンの子供を自分の子供のように育てかわいがる」
そして・・・
ヒースクリフ・キャシー・エドガー・イザベラ全員が幸せになってるところにヒンドリー登場。
ヒンドリー:「ヒースクリフ、お前が家の家賃を払わないせいで俺は賭博で負けて一文なしだ!なんとかしてくれ!」
ヒースクリフ「君はこの大屋敷で下働きとして働けばいいじゃないか」
エドガー、含み笑い。
数年後、
ヒースクリフとキャシーの息子にもこきつかわれてバカにされながら働かされるヒンドリー。(コメディタッチでね)
ヒースクリフの復讐は無事果たされ、
今ではキャシーはエドガーの妻でありながらヒースクリフの妻であるような感じとなり、
イザベラもエドガーもキャシーもヒースクリフも子供も全員が家族でハッピー。
・・・・こっちのが良くないか?
明るく行こうぜ??