木のことばは
わたしたちのことばとちがう
だから
耳をすませて
目をとじて
こころをおだやかにして
・・・ ことばをなくして
そうすればきこえてくる
木の言葉
***
人々の言う全てのスピリチュアリティがそれぞれ少しずつ違うのは
それはそれぞれの個性や文化、歴史に合わせてその真理を翻訳せねばならないから。
インドの哲学ではレベルの低い(カルマの多い)魂には ”人間”が”言葉を使って” 真理を説くことになる、とある。
レベルの高い(カルマの少ない)魂には、直接神が現れて教えを説くのである。
たとえば、 ネイティブアメリカンの儀式では
スピリットが直接現れて私たち一人一人に必要なことを教えてくれる。
これは、スピリットの実在を体感することができて
それを素直に信じることができるし、
それぞれの個に合った答えを教えてくれるということで、
非常に高度なスピリチュアリティの形態だと思う。
そのときの私に必要だったことの答えを教えてくれて
その真理は、7年以上経った今でも、ずっと私を支えてくれているほどの力を持っていた。
そして、その真理を信じたからこそ、今のわたしはここにいたりする訳で、
その力は凄まじいものである…人生が変わってしまうものである。
そんな経験を直接できるのは、その人一人一人によって 測り知れないほどの利益があることだと思う。
一度そういう体験をすると、否が応でもスピリットの存在を信じることになる。
自分の力で体験し、自分の力で見て、
しかもそれが真実を語って自分にとても有益になることを教えてくれているんだから当然だ。
でも、他の世界のほとんどの宗教界では、
人間の師が言葉を通じて、このような真理を教えることになる。
(ちなみに私の住むところのアシュラムSanthigiriの人は、
自分自身でヴィジョンを受け取るのではなく、
これが正しいと信じている
こう考えると、自分が働き、ヴィジョンを受け取るネイティブの文化はインドよりも断然高度かもしれない)
しかし、これは非常に難しいことなのだ。
言葉というのはまず、それ自体が人工物。
以心伝心ができないから言葉でコミュニケするしかないという人たちのための、既にレベルの低いツール。
そして、その言葉を発する人間が、
その真理をどこまで理解しているか
そしてその言葉を発する人間の表現力によって変わってくるし、
それを受け取る人によって必ず勘違いが生じるのは
誰もが分かることだと思う。
さらにいえば、こういった霊性の真理というのは、
言葉では表現しづらいことが多いのだ。
わたしがヴィジョンクエストで木と話した時、
最初は英語と日本語の両方で話しかけてくれた。
それは木が言葉を選んだ訳じゃなくて、
木の言いたいことをわたしの心向け(マノマヤコーサム)に 翻訳してくれていた
私の理知の部分(ヴィグニャーナマヤコーサム)が迷ったんじゃないかと思う。
その後私は日本語で木の言うことを聞いていたけれど、
それはとても心以上に深いところで話しているもので、
そして心の向こう側の奥にすっと入らなければいけないぐらい
とってもふわふわしたやわらかいもので、
実際に私が「これは私の妄想なんじゃないか」と疑い始めたら
木の声は聞こえなくなってしまった。
シッダの原理を使って考えると、木と会話している私の体は、
肉体と心ではなくて、私の魂に近いほうの体であり
そこには言葉など存在しない。
無意識で会話しているような感じなのである。
美内すずえさん創作紅天女の「阿古夜」も、
木と話すのは
「何も難しいことはない、己をなくせばよい。木の心に己の心を合わせるのだ」
と言っているが、 これがまさに正しく当てはまる。
(という訳で紅天女超すげー!)
その無意識どうしの会話を、
無理やりわたしの心が観察して、
現代語に翻訳して、
最終的に頭で理解して記憶する。
無意識の会話→自分の意識が観察→言葉に翻訳→それを記憶して→もう1度表現
と、これだけで5ステップもある。
このステップ中に、何かが失われてもおかしくないはずなのは誰もが予想できると思う。
LOST IN TRANSLATION が5回も起きる訳である。
それを表現したものを聞く→それを他人なりに理解する→他人が記憶する
というさらなる3ステップ(以上)のことを行わなければ他人に伝わらない。
普通にスピリットとまともに会話してたら、0ステップのことを、
8ステップもつけて、
しかも自分自身の言葉のボキャブラリーと
他人のボキャブラリーの違いの誤解まで加わってくるし
言葉でこういったものを説明するというのはすごく難しいのである。
さらに、頭で聞いたものを理解するのと、
実際に体験するのは本当に「百聞は一見にしかず」の世界で
全然違うのは
禅の世界を体験したことある人ならすごくよく分かると思う。
禅というのは、↑みたいな誤解もろもろを避けるために本人に悟らせることにしたんじゃないのかな?と思う。
瞑想をしていると、必ずといっていいほど、自分が持っていた疑問に対する答えが出てくるので、
臨済宗の禅問答も、そのひらめきで答えるものなんじゃないかと私は勝手に思っている。
その天からのひらめきを得なさい、ということで、謎かけをするんだと思う。
それと同時に、そういったひらめきとは、毎回の瞑想で起きるぐらい、ごく普通のものなので、
別に何かの答えが瞑想から分かったからといって出しゃばるな、みたいな意味もあると勝手に思う(笑)
実際私も必ずほぼ100%疑問が瞑想で解決するので、
いつも瞑想を始める前に、解決したいことを唱えてからはいっている。
わたしの瞑想は昼寝を兼ねているめちゃくちゃヘタレなのに、
それでも答えが出るからすごいことだと思う。
話がつらつらとなってしまったけれど、
禅でもネイティブアメリカンでも言っている
「習うより、悟れ」の姿勢が、
言葉で聞くよりもずっとずっと簡単で、
そして真実に近いのだと私は思う。
もし、宗教や本から何か学ぼうとするなら、
まずは言葉通りにそれを受け取らず、
言葉そのものが覆っている殻や、
文化の覆いを取り払って その中にある真実を見ようとしないといけないな
と、シッダを学ぶのにかなり苦しんだ。
そして・・・ 人間が翻訳して説明しているものは既に肉体やその人の心、
そして文化やその時代が反映されているので
既にもう完全ピュアなものなどない!
ということを覚えておきたいと思う。
わたしたちのことばとちがう
だから
耳をすませて
目をとじて
こころをおだやかにして
・・・ ことばをなくして
そうすればきこえてくる
木の言葉
***
人々の言う全てのスピリチュアリティがそれぞれ少しずつ違うのは
それはそれぞれの個性や文化、歴史に合わせてその真理を翻訳せねばならないから。
インドの哲学ではレベルの低い(カルマの多い)魂には ”人間”が”言葉を使って” 真理を説くことになる、とある。
レベルの高い(カルマの少ない)魂には、直接神が現れて教えを説くのである。
たとえば、 ネイティブアメリカンの儀式では
スピリットが直接現れて私たち一人一人に必要なことを教えてくれる。
これは、スピリットの実在を体感することができて
それを素直に信じることができるし、
それぞれの個に合った答えを教えてくれるということで、
非常に高度なスピリチュアリティの形態だと思う。
そのときの私に必要だったことの答えを教えてくれて
その真理は、7年以上経った今でも、ずっと私を支えてくれているほどの力を持っていた。
そして、その真理を信じたからこそ、今のわたしはここにいたりする訳で、
その力は凄まじいものである…人生が変わってしまうものである。
そんな経験を直接できるのは、その人一人一人によって 測り知れないほどの利益があることだと思う。
一度そういう体験をすると、否が応でもスピリットの存在を信じることになる。
自分の力で体験し、自分の力で見て、
しかもそれが真実を語って自分にとても有益になることを教えてくれているんだから当然だ。
でも、他の世界のほとんどの宗教界では、
人間の師が言葉を通じて、このような真理を教えることになる。
(ちなみに私の住むところのアシュラムSanthigiriの人は、
自分自身でヴィジョンを受け取るのではなく、
これが正しいと信じている
こう考えると、自分が働き、ヴィジョンを受け取るネイティブの文化はインドよりも断然高度かもしれない)
しかし、これは非常に難しいことなのだ。
言葉というのはまず、それ自体が人工物。
以心伝心ができないから言葉でコミュニケするしかないという人たちのための、既にレベルの低いツール。
そして、その言葉を発する人間が、
その真理をどこまで理解しているか
そしてその言葉を発する人間の表現力によって変わってくるし、
それを受け取る人によって必ず勘違いが生じるのは
誰もが分かることだと思う。
さらにいえば、こういった霊性の真理というのは、
言葉では表現しづらいことが多いのだ。
わたしがヴィジョンクエストで木と話した時、
最初は英語と日本語の両方で話しかけてくれた。
それは木が言葉を選んだ訳じゃなくて、
木の言いたいことをわたしの心向け(マノマヤコーサム)に 翻訳してくれていた
私の理知の部分(ヴィグニャーナマヤコーサム)が迷ったんじゃないかと思う。
その後私は日本語で木の言うことを聞いていたけれど、
それはとても心以上に深いところで話しているもので、
そして心の向こう側の奥にすっと入らなければいけないぐらい
とってもふわふわしたやわらかいもので、
実際に私が「これは私の妄想なんじゃないか」と疑い始めたら
木の声は聞こえなくなってしまった。
シッダの原理を使って考えると、木と会話している私の体は、
肉体と心ではなくて、私の魂に近いほうの体であり
そこには言葉など存在しない。
無意識で会話しているような感じなのである。
美内すずえさん創作紅天女の「阿古夜」も、
木と話すのは
「何も難しいことはない、己をなくせばよい。木の心に己の心を合わせるのだ」
と言っているが、 これがまさに正しく当てはまる。
(という訳で紅天女超すげー!)
その無意識どうしの会話を、
無理やりわたしの心が観察して、
現代語に翻訳して、
最終的に頭で理解して記憶する。
無意識の会話→自分の意識が観察→言葉に翻訳→それを記憶して→もう1度表現
と、これだけで5ステップもある。
このステップ中に、何かが失われてもおかしくないはずなのは誰もが予想できると思う。
LOST IN TRANSLATION が5回も起きる訳である。
それを表現したものを聞く→それを他人なりに理解する→他人が記憶する
というさらなる3ステップ(以上)のことを行わなければ他人に伝わらない。
普通にスピリットとまともに会話してたら、0ステップのことを、
8ステップもつけて、
しかも自分自身の言葉のボキャブラリーと
他人のボキャブラリーの違いの誤解まで加わってくるし
言葉でこういったものを説明するというのはすごく難しいのである。
さらに、頭で聞いたものを理解するのと、
実際に体験するのは本当に「百聞は一見にしかず」の世界で
全然違うのは
禅の世界を体験したことある人ならすごくよく分かると思う。
禅というのは、↑みたいな誤解もろもろを避けるために本人に悟らせることにしたんじゃないのかな?と思う。
瞑想をしていると、必ずといっていいほど、自分が持っていた疑問に対する答えが出てくるので、
臨済宗の禅問答も、そのひらめきで答えるものなんじゃないかと私は勝手に思っている。
その天からのひらめきを得なさい、ということで、謎かけをするんだと思う。
それと同時に、そういったひらめきとは、毎回の瞑想で起きるぐらい、ごく普通のものなので、
別に何かの答えが瞑想から分かったからといって出しゃばるな、みたいな意味もあると勝手に思う(笑)
実際私も必ずほぼ100%疑問が瞑想で解決するので、
いつも瞑想を始める前に、解決したいことを唱えてからはいっている。
わたしの瞑想は昼寝を兼ねているめちゃくちゃヘタレなのに、
それでも答えが出るからすごいことだと思う。
話がつらつらとなってしまったけれど、
禅でもネイティブアメリカンでも言っている
「習うより、悟れ」の姿勢が、
言葉で聞くよりもずっとずっと簡単で、
そして真実に近いのだと私は思う。
もし、宗教や本から何か学ぼうとするなら、
まずは言葉通りにそれを受け取らず、
言葉そのものが覆っている殻や、
文化の覆いを取り払って その中にある真実を見ようとしないといけないな
と、シッダを学ぶのにかなり苦しんだ。
そして・・・ 人間が翻訳して説明しているものは既に肉体やその人の心、
そして文化やその時代が反映されているので
既にもう完全ピュアなものなどない!
ということを覚えておきたいと思う。