「わたしたちはなんのために生まれてきたのか」
有名な、ラストシーン。かぐや姫が月に帰るところ。
これは、私が思うに、日本の「あの世に行く」ということの象徴なのでは?
「もう、迎えはかならず来るのでどうにもならない」というのも、
「死ぬ」という絶対に免れないお迎えに重なります。
「月の布をかぶると地球の記憶がすべて消える」というのも、
死んで冥界に行ったら、前世の記憶がなくなるということと重なるし。
また、「月からやってきた」というのも、「あの世からやってきた」ということなのでは。
前世と来世、そしてこの世とあの世を自然に信じている日本の価値観では、
非常に理解しやすいことだと思うのです。
たぶん、このお話で言いたいのは、かぐや姫が決して特別なわけじゃなくて
誰もが、一生の間だけ、ほんの少しの間だけ、
わざわざ、遠くから、やってきているということ。
たぶん、誰もが、ほんとうは、「かぐや姫」なのです。
そして、わたしたちは、ここではないどこか(たとえば月)からやってきて
少しだけ地球にいる。それは、生まれてきたいと思ったから。
じゃあ、どうして生まれてきたいと思ったの?
「生きたかった。鳥や獣のように」
わたしたちは、ただ、「生きる」ために、うまれてきた。
この世界を享受して、たのしみ、いつくしむために。
この地球ではないどこから、わざわざそのためにやってきたのに、
なぜかそれを忘れている。
「良い人と結婚する」とか、都で無理やり人間がつくった価値観ではなく
もっと大きくて、おおらかな、大地そのものの価値観の中で生きるために、
わたしたちは、この世界ではないところから、やってきている。
そして少しだけ脱線して、
NODA MAP舞台「南へ」から。
「あれ?俺は何者だ?名前は何だ?一体誰だ?
たぶん、人間で、日本人。
あれ?何か俺はやろうとしてやり遂げられなかったことがある気がする
一体俺は何だ?!おい、日本人ー!!!!」
「連れていかないで
まだ、わたし、ここにいたいのに!」
わたしたちは、どこかものすごい遠いところから
記憶をなくして
何か、大切な記憶をなくして
わざわざ、生きるという業を成し遂げるために、
やってきている。
そんなことが、ものすごく明らかになる、
この「かぐや姫」という映画、
そして「竹取物語」を語り継いだ日本人の感性に脱帽です。