悶絶としていた数日を過ぎて、
いろんなことが訳わからなくなっていたけれど、
むしろ一番拒絶していた自分自身の中身に向き合ってみたら、
自然と波が流れだしました。

「取り除こうとするから、病気が発症する」
森田神経質の本質。

「愛されたい 嫌われたくない」を
取り除こうとしていたわたしは
想いとは真逆に振舞っていました。

一人で生きれるはずなんてないんだから
人に頼るのは当然のこと。

そう体感したのか何か知らないが、
知らず知らずの間に何もかもが溶けました。




そんな日を締めくくった映画は、
(やっと、東京に行く元気が出ました、感謝)

鬼才・ギャスパーノエ監督の、

エンター・ザ・ボイド」。


この映画は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・一般ウケはしないかもしれんけど・・・・・・

面白いです。

個人的には大傑作と評判の「息もできない」より好きです。
息もできないも、渾身の作品でしたが。


鬼才監督ギャスパー・ノエの映画は
「ミミ」以外全部観ていますが(何気に、ファンなのかな・・・)
この映画で彼は完全に別次元にトリップ!!!!!!!!


映画の批評を書くことほどくだらないことはない・・・
映画を見てくれ!と思うのは毎度のことですが、この映画は特に。
説明できん。


この映画の素晴らしいところを一言でいえば・・・

命に素直なんです。
とっても、美しいです。
ああ、命って、こんな感じなんだよね。
こんなにも、やさしくて、素直なんだ。って。
これが、おなかのなかから突き上げる感じ。

こっちのがいい批評書いてます。


ネタバレバレでいきますよん。


この映画のポイントは、
今私たちが生きている「ここ」の現実と
「そと」つまり死んだ後の現実の
2種類の「現実」があります。

主人公はほとんど顔を出さないほどに手持ちカメラで
瞬きまでも再現されるその映像は観るにはつらいですが
主人公の完全なる主観の世界、主人公が観ている世界が広がっています。

DMTを吸って(知らないドラッグや。試してみたい・・・)現実と夢がごっちゃになってきて、
しかし友人へドラッグを届けなければいけない彼は

「あれ?これはキッチン。これはベランダ。そう、まずは水を出せ。水で顔を洗え。
大地の水で顔を洗え。ふう、鏡のこれは俺の顔。ジャンキーなんかじゃないだろ?」

と自分に強制し命令しなんとか自分を現実界に引き戻します。

そのあとも、ハイになってフラフラしている彼が観る
TOKYOの世界を、私たちは手持ちカメラで観ることになりますが・・・
酔う、酔う。都会ってこんなに、めちゃくちゃだったのか?
これは、彼がハイだからじゃない。
ハイだからこそ、TOKYOの現実界のクレイジーさが、引き出されているだけなのだ。

普段の渋谷を手持ちでそのまま映しているはずなのに
TOKYOの困惑した世界自体がそのまんま、
・・・ぐわんぐわんと脳に伝わってきます。

そのぐらぐらで意味不明なごちゃごちゃとした偽物みたいな世界は
TOKYOであり、彼の心であり、ハイになったときの現実世界でもあります。


ここで、大切なキーワード「チベット死者の著」の話。
ハイな主人公はハイなままその話を聞いていますが・・・


「死んだあとの世界はどうなっているんだろう」という話。

「死んだあと、お前は光をみて、今までの人生を振り返り、
あまりにもこの世界に未練があるから輪廻するんだ、
このクソみたいな世界にまた生まれ戻ってくるんだよ
要するにそれを永遠に繰り返すんだよ」

「死は最高のトリップなんだよ」

と語るジャンキー、アレックス。


不思議なことだけど、現実から一番目をそむけて居たいはずのジャンキーたちは
なぜかスピリチュアルなことに興味を持っている人が多いです。

ドラッグは、どの社会にも必ず存在します。
ドラッグがシャーマンや、ネイティブアメリカンのスピリチュアルな儀式に使われるように
ドラッグというのは、私たちを「この」現実世界からひきはがし、幽体離脱のように・・・
別の「世界」に連れて行ってくれる鍵でもあるのです。
そんなドラッグの聖性、神秘性がなんとなく匂います。


・・そんな話を、ディーラーやジャンキーがラリりながら普通に
路上にしているその姿もなんだか・・・
クレイジー・・・



観客である私たちには、
主人公が生きている間にどれだけ「死」へのトラウマを持っていたか
「妹」への愛がどれだけのものか、
一体今まで何が起きた経由で、彼が友人にドラッグを渡すことになっているのか
何も、何も知らされていません。




訳の分らぬまま、彼はとりあえず警察に撃たれて死にます・・・・。



・・・これは俺の手?あれ?俺は死んだのか・・・?







彼は、自分の身体から離脱し、アレックスが最初にほのめかしていたように
光を見、「好きなところに自由に」浮遊します。



ここから、「肉体から離脱して浮遊している彼」の第2の現実が始まります。

それは、現実というには、あまりにもおおらかでやさしく、そして冷静です。

・・・野生の動物たちはどちらかといったらきっとこのような感覚で生きているのでしょう。



その間、彼の記憶がよみがえるのですが、
その記憶の、中心にあるのは、とにかく妹。


何度も何度も同じ場面が違うアングルで繰り返されるその光景から
彼の執着心と想いが間近に伝わってきます。


「死」をなぜ妹が怖がっていたのか。それは家族が死んだから。

記憶の中で何度もよみがえるのは
そのせいで、ふたりぼっちになったおたがいは
「一生離れない」と約束するところ。


「死んだら?」と聞く妹
「戻ってくるよ」という主人公。




そんな回帰シーンが何度も流れ、
彼の人生がすっかりとやさしい光で包まれ、肯定されます。





・・・・死ぬって、こんな感じなのか・・・

・・・なんて、やさしいんだろう・・・

・・・私は「自分なんかいなくなればいい・死ねばいい」って思ってたけど

死ってそんな残酷なものではなくて、
ほんとうはとてもやさしくて、おおらかで、とても安心するものなのではないのだろうか。


そんな想いが、初めて私の頭の中を巡りました。



その途中途中のシーンは、とにかく他の人たちも言ってるけど、長すぎ!
間取りすぎ。観てるこっちは、くたくたになります。
その「間」というのは、カットなしな訳ですが、きっと監督的には必要だったんですが
「もう、いいから!」っていいたくなります!!



模型でできているTOKYOを浮遊して
彼が観るのは、
悲しく泣き叫ぶ周りの人たち、混乱している妹や友人たち・・・

しかし、それを見ている張本人の視線は、あまりにも冷静です。
もう「この世」から切り離された彼には
「この世」の肉体をもった人たちの苦しみなどは、
ただ単に見下ろすだけに過ぎない存在なのです。


冷静に自分の遺体をカメラから見下ろす。
冷静に自分の遺体が火葬場で焼かれるのを受け入れる。


徹底した冷静さは
冷たさよりもむしろ、

・・・「いのち」の本質に向かっています。


「オスカー」であった彼は「いのち」となり、この肉体のある世界を浮遊し、彷徨い、
再び、この世に産まれる術を探します。


最後に彼が導かれるのはラブホテル。
そこで繰り広げられる、セックスシーンは、
フェラにすら性器から光が放たれ、
さらには性器から湯気までが漂い・・・

・・・性って、こんなに、「いのち」を惹きつける、
聖なる存在だったのか・・・
と、あらためて痛感します(そして場面が長いので2倍で痛い)

「いのち」そのものである彼は、
その性器から放たれる凄まじく明るい光に
まっすぐに導かれます。


浮遊し、冷静に現実と自分の生きてきた世界を見つめた彼は、
その神々しく輝く光に導かれて
セックスをしている最愛の妹の身体の中に入り、
赤ちゃんとなり転生するのでした。



・・・・・


この映画を観るまで、エロス(生への欲望)とタナトス(死や破壊への渇望)が
表裏一体の存在だということがどうしても理解できませんでした。

この映画は、死や破壊への渇望はそのまま終わりではなく、
むしろ、自分自身の今までの生やこれからの生に直結しているということを
私に教えてくれました。

そして、それに不可欠な「性」の存在。

初めて、エロスとタナトス、そして性が繋がりました。



まっすぐに、「いのち」に向かっていく作品でした。

きっと、私たちも死んだら、こういう感覚なんでしょう。納得がいきます。