この内容で記事を書くのはすごく自信がなかったし
日本をそっちのけで海外について書くだなんて
震災の方々になんとなく悪い気がしていたのですが、
貧しさと裕福さについて、
知識以前の、わたしの感性で感じた考えを書きたいと思います。

またもや長くなるかも。
興味あって面白いなら読んでね。





先週あたりに、Wifiが入る環境に行ったため
Youtubeで色んなビデオを見ることができました
(は、こんな日々はもう勉強に埋もれて存在しないと思いますが)

なんか偶然見つけた、
スイスに住む早老症の子の話や、
9歳で金鉱で働いてるモザンビークの子のビデオを流していたら
ネパール人の友人がやってきました。

9歳で働き始める、というのは、ここでは全くおおごとではありません。
そこらへんに働いている子供はたくさんいます。
わたしのかかりつけのドクターも11歳ぐらいの子供を使ってます。

友人も「だから何?俺だって12歳の頃からずっと働いてるんだ」とコメント。
その子の場合は、家族が彼の収入で食いつないでいるらしいので
少し状況が違うのですが、
この地でそういうことを言っても大したシンパシーは得られません。

わたしの昔一瞬付き合ったインド人の彼も10歳から働いているし
わたしの大学の生徒たちみたいに、
ストレートで学校に行って、むしろ学校の世界しか知らない子なんて
そうとう恵まれているし、一握り。

そのビデオには、かわいそうだなあ、みたいな日本人のコメントがたくさんありました。
しかし、こんな例は本当に、どこでも見かけるようなものなので、
ここに居る人たちが
「普通じゃん」と思っても、「かわいそうだな」と思うことはありません。
そう思えるのは、すごくゆとりがある人間だけです。



スイスに住む早老症のビデオについても、
ネパール人の彼はこうコメントしました。

「何だよこの子、すべて持ってるじゃんか」

誕生日に両親から靴をもらって祝ってもらうことができるその子。
同じ早老症のネットワークのミーティングに参加するために
スイスからアメリカまで行けるその子。
学校でも別に差別も受けず、
先生からも認められいるその子…と言うか学校に行けるその子。

そのすべてが、彼には「羨ましく」映っていました。

結婚式によばれても行く服がなかったような屈辱を何度も経験している彼には
早老症という、不治の病をもち、寿命が短くても、
家があり、服があり、靴が買え、アメリカにまで行くことができる。
それは、恵まれているということであり、まったく「不幸に見えない」のです。





この、途上国の恵まれない人たちの悩みと、
先進国の恵まれている人たちの悩みのギャップは
森絵都さんの直木賞受賞作「風に舞い上がるビニールシート」に見事に凝縮されています。
この傑作を簡単に語ることはできませんが、

「命がビニールシートのように舞い上がり、もみくしゃになって空中へと飛ばされて行く」ような
戦争難民たちを救うフィールドで働くのを生きがいにしている夫エドと
日本に住み彼の一時帰国を待ち続ける妻としての主人公里佳の奮闘を通して
その感覚の違いは描かれています。

”ビニールシート”を救うことだけを考えているエドの一時帰国だけを待ち続け
帰ってきたエドを家庭のぬくもりで包もうとしても拒否される里佳は7年間苦しみぬき
とうとう自分の気持ちを抑えきれなくなり、

「私たち夫婦のささやかな幸せだって、吹けば飛ぶようなものなんじゃないの?
あなたがフィールドにいるあいだ、私はひとりでそれに必死にしがみついているのよ。
あなたはなにをしてくれたの?」

と叫んでしまいます。

それに対してエドは

「仮に飛ばされたって日本にいる限り、君は必ず安全などこかに着地できるよ。
どんな風も君の命までは奪わない。
家を焼かれて帰る場所を失うことも、目の前で家族を殺されることもない。
好きなものを腹いっぱい食べて、温かいベッドで眠ることができる。
それを、フィールドでは幸せと呼ぶんだ」


と答えます。


この言葉がふたりの「おしまい」を確実にするものだったのですが、

このふたつの会話にまさに、途上国のひとの不幸と幸せの感覚
先進国の恵まれている中での不幸と幸せの感覚

見事に表現されているとわたしは思います。

(大傑作です、この短編。おすすめします)


インドのように通りすがりのバスで サンダルを片方はいている人間を見ることもない。
リザベーションに住むネイティブアメリカンのように
真冬の寒さに靴下が買えずに素足でこわれた靴を履くこともない。
生活が辛いと言いつつも毎日違うものを食べることができ、
悩みは服がないことでなく、気に入った服がないということ。


そして、「物が豊かなことは決して心を豊かにしない」と自信を持っていえる日本人は
どれだけ恵まれているのか。
この世にそんなことを言える状況に住んでいる人たちがどれだけいると言うのか。
そんな中でもがかれても、大したことじゃないじゃないか、としか思えない。

これが、↑に例をたくさんあげましたが、ネパール人の友人や、小説のエドの感覚。



しかし、「風に舞い上がるビニールシート」は決して物事をそんな単純な眼で測りません。
たったひとりでエドの一時帰国を待ち続ける里佳の奮闘。葛藤。苦しみ。
理解してくれる人たちも周りにおらず、いつ死ぬかも分からないエドを待ち続ける不安。
彼女は、「結婚生活」という戦場で十分苦しんでおり、その葛藤は本物で
痛々しすぎてわたしは(自分と重なることもあり)号泣でした。

”風に舞うビニールシート”を救う立場のエドからすると
そんな彼女の魂の奮闘も大したものに見えない。
それらのミスコミュニケーションも見事に描かれています。


貧しいひとたちの視点と、裕福なひとたちの視点には、これだけのギャップがあるということ。

当然といえば当然ですが、これらの例をあげようとすればいくらでもあります。
わたしのまわりでもいくらでもありえます。

・ペットは飼わない
・外に食事に行くという概念はない
・出かけるという概念もない
・おいしい食べ物を食べるという概念もない

・・・などなど

これらは、途上国の人間にとってはめちゃくちゃ当たり前の当然の話で
わざわざ記事にするのもとがめられるほどに常識的なことです。

わたしもいつも「猫を飼いたい」、と言いながらも罪悪感を覚えます。
そんなことをするのは、金持ちだけだという自覚があるからです。

東ティモールを取材したジャーナリストの南風島渉さんも、10年ぐらい前の話ですが、
「ペットなど要らない」と言っていました。
当時17歳で動物好きのわたしにはそのとき意味が分からなかったのですが、
そんなものに金を使うゆとりがあるなら別のことに使え、ということでしょう。

アメリカでは「米と豆しか食べられない人が人口の60%なんだよ!貧しいでしょ!」と言われましたが
こちらでは米と豆を食べるのがフツーです。

結論がよく分からなくなってしまいましたが、これだけ私たちには感覚の違いがあります。

裕福な日本では、貧しい人の感覚を心にとどめておきたいと思わされます。
わたしたち日本人(先進国の人間)は、この世界の6割以上を占める
途上国の人間から、そのように見られているということです。




次は、貧しいこと、裕福なこと、について書いてみようと思います。
18歳にネパールに行った時からいつも感じていること。